馬高の地中より取りだされた火焔土器の破片は、他の遺物とともに近藤家へ運ばれました。
当時の近藤家では、昼に発掘・採集した遺物を夜に洗って、庭に面した大廊下いっぱいに干す光景が日常となっていたようです。
おそらく火焔土器もそのように泥を落とされ、器面をぎっしりと埋め尽くす文様を約5千年ぶりにあらわにしたのでしょう。 乾燥した破片や遺物は、母屋の奥の八畳間を作業場にしていた篤三郎によって時間をかけて復元され、隣接する土蔵「近藤考古館」で陳列されました。


火焔土器はバラバラの破片で発見されましたが、底部などを除き9割程度の破片が残っていたため、約5千年前当時の姿をよくうかがうことができます。
篤三郎の努力で復元された、異彩を放つ力強い土器。それを何と呼ぶべきか、近藤家や周囲の人々が戸惑ったであろうことは想像に難くありません。
「角をもった土器」「角飾(かくしょく)土器」と呼ぶ人もいましたが、篤三郎自身は当初、五本の指を内側に曲げて手を持ち上げる所作をつけ「あの土器」と呼んでいたそうです。
やがて近藤家では、燃えさかる炎を表現して「火焔土器」と呼び始め、その名称が定着しました
関原町の近藤家はタバコ産業を礎として発展し、葉タバコの農園経営や売買に関連した関原銀行の開業、郵便局の経営などで財を成しました。
その傍ら、篤三郎や父・勘治郎、祖父・勘太郎ら一族をあげて遺物の採集や遺跡の踏査、土地を買い上げ発掘調査を行うなど、考古学の研究に情熱を注いでいます。その成果は、勘治郎や篤三郎によって中央の学会誌(『考古学』第7巻第10号、1936年)や郷土誌(『高志路』第3巻第6号、1937年)に発表されました。
また勘治郎は著名な研究者たちと積極的に交流し、その指導の下、新潟県で初めて縄文土器の編年を体系的に示した斎藤秀平の「新潟県に於ける石器時代遺跡調査報告」(1937年)の編さんに尽力しました。

あの土器」を「火焔土器」と呼び始めた近藤家の人々は、公的機関に所属する研究者ではありませんでした。しかし在野の郷土史家として、調査・収集・研究、そして陳列・公開と、当時としてできうる限りの活動を行っていた、先進的で情熱的な人々といえるでしょう。
<引用・参考文献>
中村孝三郎 『古代の追跡』 講談社 1970
長岡市立科学博物館 『重要文化財考古資料展』図録 2001