火焔土器発見90周年①火焔土器発見、その日

昭和十一(1936)年、雪のない大晦日。冷え込む曇り空の下で、独り黙々と馬高遺跡の土を掘る青年がいました。

彼の名は近藤篤三郎(とくさぶろう)。馬高遺跡が所在する関原の地で農園や銀行、郵便局などを営む旧家・近藤家に生まれ、祖父より三代にわたって近隣の遺跡を巡り、遺物の採集を続けてきました。

そして彼の手は今、とある土器を約五千年の眠りから揺り起こそうとしています。大型の土偶や石棒など目をみはるような遺物とともに、土から取りだされたたくさんの土器の破片―「火焔土器」の発見です。

近藤篤三郎(1907-1945)
馬高遺跡出土 火焔土器
伝「火焔土器」出土地の旧景観(中村孝三郎撮影)

 篤三郎の父で銀行家、そして在野の郷土史家であった近藤勘治郎は、その日の様子を下のように書き記しています。(『石器時代遺跡探渉日記』第一冊)

一、昭和十一年十二月三十一日、本年は珍しく無雪也、此日曇天にして稍寒し、篤三郎本年最後の暇乞を馬高遺跡に告ぐ可く源助畑に於いて実に珍物稀有のものを出す。一、は大石棒にして、二、は大土偶なり。

 「大石棒」は緩くくびれた頭部と胴部に皿状のくぼみをもつ安山岩製の大形石棒(長さ約40cm)です。「大土偶」は現在「ミス馬高」の愛称で親しまれている大形品(高さ約18cm)で、ともに馬高縄文館でみることができます。

火焔土器は破片であったためか文中にみえませんが、この二つと同日同所での発見と伝えられています。

近藤勘治郎(1882-1949)
馬高遺跡の「大石棒」
「ミス馬高」土偶

馬高遺跡では、時期の異なる二つの集落(北のムラ・南のムラ)が確認されています。日記にある火焔土器の出土した「源助畑」は隣接する南北のムラの境目にあり、現在では近藤家が植えた杉の木群の南側(下の写真では杉の木群左側)に、発見場所を示す標柱が建てられています。馬高縄文館よりすぐ、ご来館の際には訪れてみてください。

馬高遺跡現況(南北のムラの境目、中央が杉の木群)
標柱と見学する児童